古河秀雄さんが80年前シャッターをきったのは本通商店街のどのあたりか
古河秀雄さんが昭和16年〜17年に撮影した写真26枚を親族の方が平和資料館へ寄贈。そのうち「タソヤ」の看板がはっきりしている写真は、右手前の田阪文栄堂から道なりにタソヤ百貨店・ちから・三和銀行。太平洋戦争開戦初期の(or 開戦ちょっと前)本通商店街とのことです。
一度目にすれば何か記憶に残る「タソヤ」のカタカナ三文字屋号。以前にも見たことあるなあと書庫へ。あき書房が復刻した「大日本職業別明細図*1(昭和14年)」と、中国新聞「ヒロシマの空白 被爆75年(2021年)」に「タソヤ」がありました。

原爆で壊滅・閉店するまで呉服や家具を販売していたというタソヤ百貨店。従業員と思しき人たちが店頭で整列した写真がヒロシマの空白に掲載されています。タソヤと三和銀行を確認できる昭和14年発行の明細図に田阪文栄堂とちからがないのは、おそらく広告出稿の関係かと思われます。
昭和10年6月10日に本通で創業・昭和19年戦争のため営業を中断したちから*2。かつての店舗・創業の地が写ったものを現在ちから本社は持っておらず、今回資料館に寄贈された古河秀雄さんの一葉が唯一かもしれないとのことです。

古河秀雄さんは80年前たぶんこのあたりからシャッターをきったんじゃないかなと想像しながらiPhoneで写しました。BEAMS(本通SAZAN)の位置にかつての三和銀行。被爆時大林組広島支店。倒壊は免れて修復 → 2002年に解体されるまで山口銀行。ここの区画は80年前と変わらず。本通SAZAN1階にモニュメントが設置されています。

おそらく宝石のNIWAKAの場所がかつてのちからで、タソヤのところに今はべっぴん店。80年前のべっぴん店(渡部別嬪店)は200m西。創業130年の歴史を誇る老舗です。
昭和50年3月生のぼくにとって、本通のこのあたりは → 1)呉の実家を脱出して東千田町でひとり暮らしを始めた、2)本通りが徒歩圏内になった、3)ゼミのお使いで地図の中国書店へよく遊びに行っていたの3点などにより、覚えている風景は90年代から。カープ帽のおじさんが山口銀行の前で表札を並べて売っていたり、魚がいっぱい詰まった発泡スチロールを自転車に積んだ行商のおばさんは特に印象が強いです。

昭和19年祖父が食べたのは「ちからのうどん」だったのか
昭和19年うどんの話を一席。大正12年音戸町生まれの祖父は2009年に祖母を看取ってから急に戦前・戦中の話をしたり、これまで原爆忌でも行かなかった平和公園へ呉線に乗って足を運ぶようになりました。真意はわかりません。つれあいを亡くしたショックでヤキがまわったと親族一同心配しましたが、会ってみればいたって普通。むしろ元気。それでも齢80過ぎの後期高齢者ひとり歩きは心配ということで何度かお供をしていました。
何度目かの平和公園の帰り、ちから本通4丁目店のカウンターでうどんを食べていたら祖父の思い出話が始まりました。
曰く「昭和19年3月応召の前の日は平田屋町に宿をとって晩は本通りでうどんを食べた」。陸軍の教育召集は早朝の京口門集合だったので、前の日に音戸を発って宿をとった。辰川の親戚のおばさんがくれた羊羹を1本食べて本通周辺をぶらぶらしていたとのこと。晩ごはんのうどん屋さんがちからだったのか、屋号までは覚えておりませんでしたが、曰く「のちにまた行ってみたが、お店自体もうなくなっていた」と。
これをちからのうどんをすすりながら聞いたもんですから、祖父が食べたうどんはちからだったに違いないと思っています。確認する術を思いつかないし。


ちからは2025年の創業90周年に向けて社史の発刊準備をしていると2年前に聞きました。「応召前日のうどん」はもう自分の中で決着がついた(つけた)のですが、ちからはお昼によく食べるし、好きだしということで「ちから社史」にはとても興味があります。
具体的に気になっていることもあって、中国新聞朝刊(昭和49年4月24日)16面の広告から「味たじまのイカス和風席」。カラーブックス665広島味どころ 柏村武昭(保育社 昭和60年)より「味の小箱」や価格の変遷 → 昭和60年当時かけうどん200円 → 令和5年11月現在480円。他にもまだありますがそれはまた別の機会に。

付記
広島本通商店街
古河秀雄さんが80年前シャッターをきった場所について試行錯誤。ポイントを変えながらいくつか撮影しました





「呉へ引っ越し」が話題になった「ちぃたん☆」と本通で偶然すれ違いました。振り返ってとった写真が本通SAZAN手前。旧革屋町 → 旧平田屋町方向でした。

斜線制限でアーケードのあたりから斜めになっている白いビルが本通SAZAN。ちなみに2019年11月24日はローマ教皇フランシスコが長崎と広島の平和公園に来てメッセージを出した日です。

昭和8年創業中国書店は2017年4月15日に閉店しました。
歩兵十一連隊(広島)昭和19年冬 週番勤務中























戦争をどのように思っていたのか

- 中学に上がってから日中戦争が始まった。腕っぷしに自信ないながらも学校教練は受けた。兵隊は向いていない気がした。
- 旧制大阪外語の受験に失敗 → 大阪専売局に勤めながら仮面浪人 → ヒラ役人ながらも楽しかった。和歌山とか滋賀に出張してたばこ畑の作付面積を調べていた。たばこ農家の歓待はよく覚えている。たばこ農家へ婿入りの話もあった。農作業ではなく現地の役場の職員になれ、みたいなことだった。かなり心が動いた。受験の意欲はどんどんなくなりこれは堕落だと自省をした。
- 徴兵検査 甲種合格だった。昭和18年5月か6月か。音戸に戻っていないのでたぶん大阪市内で受けた。
- モラトリアムな毎日をエンジョイに終止符をうったのは教育召集 → イヤだったが拒否は考えられない・実際考えていなかった。徴兵忌避の噂話 → 笑い話程度には耳にした。
- 赤紙の印象は? 覚えていない。音戸の実家から召集を知らせる電報が職場(or 官舎)に届いたことは覚えている。徴兵検査の後にはみんな呼び出しがかかる。自分にも順番がまわってきた程度のこと。バンザイで見送られたとか千人針とかの記憶はない。
- 教育召集の期間を終えても再召集は免れない程度の話は耳に入っていた → 専売局に戻らず陸軍昇進試験の勉強をした → 兵隊は向いていないと確信していたが軍の組織の一員で過ごすしかないと思っていた
- 歩兵第十一聯隊跡に足を運んでの感想は? 門柱の大きさが記憶のものより小さかった。見取り図もちょっと記憶のものと違う。
- 鳥取地震(昭和18年9月10日)東南海地震(昭和19年12月7月)三河地震(昭和20年1月13日)南海地震(昭和21年12月21日)で覚えていることは? → ない
- 天皇は現人神だったのか? → 学校では神話の授業がある一方でダーウインの進化論も習った。人類のアフリカ起源説は当時でも一般教養。説明しづらいが畏れと科学の折り合いをつけていた。当時思っていたことなのか戦後のことなのかはっきりしないが、万世一系というのはマユツバだと思っている。
- 軍国主義にどのような気持ちで相対していたのか → 70年前の気持ちを言い表すことは困難。無理。価値観も世間の空気も変わってからの人生の方が長い。結果的に(軍国主義を)受け入れてしまっていたということだろう。例えるならば消費税と小市民。買い物をすれば自然と消費税分を頭の中で計算している → 生活の中に入っている。税率が上がれば反発の気持ちはあるが、上がる直前には買い溜めに走ってしまう小市民である。
- 戦況が悪くなる一方での陸軍生活について → たとえば陸軍病院の中で聞く話と部隊で聞くうわさ話、新聞に載っている記事はまるで違う → 戦況の悪さは漠然と感じていたが最前線から遠い広島でサラリーマン的に過ごしていた → いよいよ命のやりとりが始まると直感したのは昭和20年6月広島から小倉に転属するとき → 家族に宛てたはがきで(or 除隊後の家族との会話)鎮西探題や竹崎季長とか森鴎外をもじって小倉行きを伝えた
- 小倉行きの規模は? → 一緒に移動したのは30人程度。このうち20人くらいとは(8月17日か18日)広島に戻った。全体の具体的な規模はわからない。
- そもそも非力な自分を召集した時点でまずい方向に傾いていると思っていた。沖縄から北進するアメリカ軍に当てるための小倉行きとうわさに聞いていた → 訓練で一発の弾丸さえも撃ったことがない。実戦経験はもちろんない。九州のどこかで死ぬと思っていた。靖国で会おうみたいなノリはピンとこない。当時も聞いたことはない。
- (8月15日以前の)日本敗戦のイメージは? テニアン玉砕(昭和19年8月)のような目にあうイメージ。
- 列車で通った関門トンネル。あれはすごいと思った。
- 小倉からいつ広島に帰ったのか → たぶん8月17日か18日に己斐に戻った。横川駅でも広島駅でもなかった気がする。
- 祖父の話を聞いての感想 → その日東京駅発五時二十五分 西川美和さんのあとがきとダブる

私自身は生まれ育った土地柄、物ごころついた頃から、戦争や原爆にまつわる、とてつもなく悲惨な情景や体験が絶えず聴こえてくるような環境だったので、反対にこの伯父の、一発の銃弾も放たず、辛く厳しい軍隊生活もそう長くは強いられず、劇的なことは何も起こらなぬままに帰ってきてしまったという、まるで戦争の核心から疎外されたようなゆるやかな体験談には、同じ戦争の話でも、幾分ほっとするところがありました。 西川美和(2012)その日東京駅五時二十五分発 新潮社 新潮文庫版あとがき(2015)pp.120
伯父は、こちらが勝手に想像するような都合よくドラマチックなエモーションの類は一切持ち合わせず、リップサービスの一片すらも覗かせないのでした。その時代に生きた当事者の中には、案外このような「軽やかさ」のようなものも存在したのだということもまた、私にとっては新鮮な発見でした。西川美和(2012)その日東京駅五時二十五分発 新潮社 新潮文庫版あとがき(2015)pp.124
吉川晃司さんと吉川旅館

2011年8月6日原爆忌の平和公園。雁木で吉川晃司さんが手を合わせていました。「愚 日本一心」には、父親吉川正俊さんの実家が中島本町の割烹吉川旅館と知ったときの心境などが記されています。

明治・大正時代、吉川旅館は県下最大の旅館としてその格式と貫禄を誇っていた。広島を訪れる貴紳・高官・富商というのはすべてそこに泊まった。それだけに一般市民にはなじみにくい存在であったらしく、妙なひやかし歌があったという。元安川に接していて、居ながらにして川景色が眺められたが、軒先から舟に乗じて水上の周遊を試みることもできた。(ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 広島:町並み、田淵実夫 編、東京、国書刊行会、1981年、p.103)



復元図で示されているように、埋立・護岸工事が戦後に施されているので、平和の時計塔のあたりがかつての吉川旅館かなあと想像しながらシャッターをきりました。

呉軍港案内(昭和9年)には吉川旅館(呉市本通一丁目)の広告が掲載されています。こちらの旅館は「Kitsukawa=きつかわ」。sakenomori san @sempukuさんが教えてくれました。「Kikkawa」促音のルール通りでないところがひっかかり、戦前のローマ字表記をいろいろ見る必要があるなと宿題。しかしとりあえず「Yoshikawa よしかわ」ではなさそうなので、中島本町の吉川旅館との関係(=経営母体が同じとか本店・支店の関係とかそういうこと)が気になっています。

明治二十三年頃から、旧海軍幹部クラス(佐官以上)御用達の吉川旅館よりのれん分けされ、山崎家弁当部として創業。昭和十一年から平成十六年まで駅弁の構内販売後、現在三代目に至る。
2017年4月23日レンガパークマーケット2017 in Spring・アッタラシイ呉菓子大博覧会が大和ミュージアム(呉市宝町)で開催。山崎家のブースにありました。本通一丁目吉川旅館のお得意先も階級の高い軍人だったとのこと。

祖母一周忌のお斎で山崎家の仕出し弁当をいただきました。


山崎家は平成16年まで製造・販売していた駅弁を復刻。

原爆忌
https://x.com/sempuku/status/1369473248803520517?s=20
https://x.com/semhttps://x.com/sempuku/status/1369473248803520517?s=20puku/status/1369473248803520517?s=2


原爆忌平和式典が終わると新聞各社の号外が出ます(配ってるところに通りかかったのは中国新聞と読売新聞の二紙しかないけど)。平和公園や八丁堀交差点、広島駅など。平和宣言が掲載されています。2011年は原子力発電について少し触れていました。
この日の平和式典を伝えるニュースのなかに「原子力爆弾」とアナウンスを繰り返す放送局があって、それはどんな意図なんだろうと今も考えたりします。福島第一原発の放射線量はずっと上がる一方の頃だったので、結びつけたかったのかなあなんて思ってみたり。
被爆地広島が原子力推進に利用されたことは過去にあって、原子力平和利用博覧会の広島会場は平和資料館(昭和31年)。映画「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)昭和34年公開」では、原子力推進とか平和利用を謳う展示が資料館のシーンに映っています。

うどんと和菓子 ちから

2012年ちからは一風堂とコラボで新しい中華そばを開発。既存店のうち数店舗を「中華そばちから」へ業態変更(2012年 府中店、2013年 八丁堀店など)。本通4丁目店は1階がこれまでの「ちから」2階が「中華そばちから」になりました(2018年10月)。

2011年9月21日「ぶちかわ vol.18」USTREAM配信。ちからのうどんと和菓子を食べました。



みたらし団子は2011年9月当時の限定商品でした

みほちゃん&松村くんと開店準備のちから本店を見学しました。早朝4時53分。この時間にちから本店では各店舗で販売する和菓子やおむすびなどを準備。うどん玉とだしは近くのビルで一括製造。本店に一度集められ各店舗へ配送ということです。


2012年6月5日「ツイなま vol.96」USTREAM配信。プロの調理をかぶりつきで。一文字弥太郎さんも興奮の様子でした。
被爆前の写真約1万点寄託 広島・公文書館に写真家松本若次さん遺族(朝日新聞 2024年1月30日)
- 被爆前 広島の街並み・市民の営み 写真1万3000点 市公文書館へ ウェブ上で順次公開(中国新聞 2024年1月19日)
うどんの「ちから本店」に餅をつくきねのマーク なぜ? きねマークの由来は「力餅」【けいざいトリビア】(中国新聞 2024年6月5日)
広島・ちから「中華そば」が、ポテトチップスに!中四国エリア限定販売(広島ニュース 食べタインジャー 2024年11月22日)

「資さん」がやってくる! 香川出身記者が広島のうどんチェーンに受け止め聞いてみた(中国新聞U35 11月26日)
資さんうどん、広島県で複数店オープンへ 2025年夏以降(中国新聞 12月5日)







