前口上(長いので飛ばしてだいじょうぶ)
このブログは「西部警察と昭和57年の広島」の項目を設けています。西部警察「広島市街大パニック*1」その発端の殺人現場・広島駅地下自由通路に興味を持ったことがきっかけでした。
しかし記事の更新は滞っています。やる気はあるけれど、書けない+言葉が出ない+ときどき謎の発疹+万年腰痛+しつこいツメ水虫+進行する薄毛+チェーンスモーカー=COPD+α=肺をやられたポンコツ中年。コロナなんぞに罹ろうものならイチコロです。おつむが足りない自覚もあるけれど、まさかのやばい病気さえも疑い「これはミドル・クライシスの予兆?」安住さんがラジオでお話ししていたこと*2がよぎる今日この頃です。
そんな折、普段はミニチュアダックスの写真ばかり探してはキュンとするだけのインスタで、偶然「#音戸大橋60周年」のハッシュタグを見つけました。たくさんの方が投稿した音戸の写真に図らずも見入っておりましたら、「下手な考え休むに似たり。サボる理由ばかり探して本当にサボるのはやめましょう」。聞こえた気がいたしました。悔悛覚悟せる由をほのめかしつ、音戸と西部警察について書きました。
西部警察「燃えろ!!南十字星*3」は、昭和57年7月*4・架橋21年目の音戸大橋が4秒ほど映ります。
「空撮の画角が船舶事故のニュースと一緒!」「広銀のビルが変わってない!」「あれはおばさんちの屋根!」「戸田本店が見えた!」「展望駐車場の食堂がギリ映ってない!」……。記憶の引き出しがどんどん開いてしまうのは、血脈ながれる町・かつての地縁の親しみ故かと思います。
音戸が呉市に編入されたのは平成17年・2005年。「平成の大合併」の時事用語はしっかり頭に入っているつもりですが、それで誕生した「呉市音戸町」にはいまだ慣れず、かつての「安芸郡音戸町」がしっくりします。これは昭和50年生まれ(M2層)の身の上によるもので、中年には「安芸郡」時代のほうが長いこと、そして合併のはるか前よりお盆の墓参りでしか音戸へ行かなくなったからに他なりません。
第二音戸大橋の架橋は2013年。近所の警固屋小学校へ現在通う児童のみなさんあたり(C1層)から「同一画面フレームに二つの音戸大橋がならんでいない映像」が、「なつかしい」→「知らないむかし」へ切り替わるお年頃なのかも。ああ、これが世代間ギャップなんですねえ。
「西部警察と昭和57年の広島」は、劇中の町並に注目するを旨としていますが、撮影・放送された昭和57年の追憶・理解の補助線に当時の新聞記事などをあたっていると、それらが自分の体験や思い出とつながって、なかなかの高揚感です。以下、シナプスに作用したので取ったメモ。
- 「燃えろ!!南十字星」あらすじ(南十字星のクルーズまで)
- 大門軍団の水中翼船の航路は?
- 昭和49年観光ガイドに見入る(能美海上ロッジ、四ツ道路の呉阪急ホテル、日新製鋼 呉製鉄所と実業団駅伝、大空山青年の家とハレー彗星、移転前の呉市立図書館)
- 映画「故郷」は、宮本常一の民俗学のカテゴリーなのか?
- さよなら音戸渡船
- 昭和36年音戸大橋開通の家族写真
西部警察をメタの視点で眺めた結果のメモです。劇中の町並・この度4秒ほどの音戸に注目して見えてきたものは、ブラウン管のこちら側・テレビを観ていた家族のお茶の間でした。「ん?」でしょうか。
昭和57年当時35歳の父。母は31。いつもべったりで小学校にまでついて来た弟は2歳。そしてぼくは7歳・小学2年生。家族4人が囲む食卓の時間はだいたいサザエさん*5〜さすがの猿飛*6〜南の島のルーシーのあたり。そして書斎に戻って一服の父は峠の群像かTVスクランブル。母は台所の片付けを終えて家族対抗歌合戦が常でしたが、この時だけは4人そろって西部警察広島ロケ編。何を話したかまではさすがに思い出せませんが、この家族4人の団らんは、7年後ぼくの反抗期突入とともに殺伐としたものとなることを自覚・反省しています。
西部警察とそれを観ていた自分を俯瞰=自分との対峙。思い出す悲喜こもごも・考えるあれやこれや。それらをブログ記事へと仕立てることにより、ポンコツ中年は鬱々とするコロナ禍の毎日と、ミドル・クライシスに抗っています。
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「燃えろ!!十字星」あらすじ/大門軍団の水中翼船の航路は?
- 大曽根物産は覚醒剤を取引している
- 覚醒剤を横取りしようと風間時男の一味は大曽根社長らを都内で襲撃。市民が巻き込まれる。
- 大門軍団は風間時男の一味を都内で、そして佐伯郡大野町*7チチヤスハイパーク・ダイヤモンドプールでも取り逃がす
- 南十字星での一網打尽を目論む大門軍団。水中翼船で南十字星を追尾しながら風間の接近を待つ。音戸の瀬戸を航行中。
風間時男役の風間健は、愛知県名古屋市出身の元キックボクサーで、のちにアクション俳優に転向。『西部警察 PART-Ⅲ』('83年)第5話や『大都会 PART-Ⅱ』('78年)第52話にもゲスト出演。俳優・筒井道隆の実父でもある。
阿蘇品蔵・岩佐陽一・久保木侑里(編)(2016)、西部警察 SUPER LOCATION 2 日本全国縦断ロケ広島編、青志社 pp.97
- 都内発砲事件で逮捕した野崎武の供述と、広島県警の逮捕者・犯罪歴データベースによると風間時男の住まいは広島市中区昭和町。風間が日産サファリを買ったディーラー「広陽日産*8」で保管されていた伝票*9には「〒730 広島市南区大須賀町3-6-17*10」。電話番号も記載されています。この番号は昭和57年当時実在するもので、契約先が分かりました。ホテルニューヒロデンの宿泊予約専用番号でした。
航路のイメージをつかもうと昭和49年のイラスト観光案内図を眺めています。大曽根と風間に面が割れている大門軍団は、一体どこから水中翼船に乗ったんでしょうか。大曽根よりも早いタイミングで広島港を出たものと決めてかかっていましたが、呉中央桟橋とか阿賀港から出港し南十字星の航路に入った可能性は考えられないでしょうか。
- 阿賀 - 松山堀江の定期フェリーは2009年6月なくなった
- 「呉・松山フェリー」は単に航路の名前だと思っていた → 航路廃止のニュースで阿賀港に本社を置く会社名だと知った → 瀬戸内海汽船が全面協力の「燃えろ!!南十字星」で他社のお膝元・阿賀港をわざわざ出すことはしないかな?「呉・松山フェリー」はテレビCMの出稿が多かったけど。
昭和49年観光ガイドに見入る
映ってないシーンを想像しながら47年前の案内図に見入っての気付き・思い出。人生再設計第一世代(またはそれ以上の年齢)の方、呉にゆかりのある方なら懐かしく思っていただけるかもしれません。
- 能美海上ロッジ。近所の水口さんご一家に海水浴で連れてってもらった小学3年生・1983年の夏が一番古い楽しい思い出。投げっぱなしバックドロップで海へ放って遊んでくれた水口のおじさんは当時30代後半。ぼくはその年齢を超えてしまいました。ロッジは1967年7月10日開館(工費9500万円*11)。2017年3月休館。東洋観光が経営を引き継ぐ話もありましたが、建替え費用がネックとなり引き取り手のないままになっています。ロッジにかわる新しい宿泊施設として150m南東に江田島荘が7月1日オープン。江田島市が補助金5億円を出して不動産会社のレーサムを誘致したと聞きました*12。能美海上ロッジは来年1月から解体工事が始まるとか。近くに軍艦利根資料館。ロッジの晩年は艦隊これくしょん(艦これ)ファンの方(提督さん)をたくさんお迎えしたようです。
- 四ツ道路にあったころの呉阪急ホテル。1969年開業。1992年呉駅前の現在地へ移転*13。跡地には現在ウォンツ呉四ツ道路店。駐車場が広くとってあり便利なんですが、敷地に対してレイアウトがスカスカに感じるのは、8階建てビル時代のイメージがいまだに残っているためか。
- 早瀬大橋たもとの海上ホテルこがね丸*14
- 神戸製鋼 呉工場 → 1989年1月31日 呉工場閉鎖*15。1987年閉鎖とするのは神戸製鋼所『神戸製鋼 100年:1905-2005』
- 日新製鋼 呉製鉄所(日本製鉄 呉製鉄所)→ 2023年までに閉鎖の予定(2020年2月*16)。この一報で日新製鋼は日本製鉄と合併して社名消滅を知る始末。
「旧軍港市転換法」の制定と特需ブームを背景に、旧軍施設への企業誘致もようやく軌道にのることになった。旧呉工廠には、日亜製鋼(株)呉工場(昭和二六年六月三〇日に操業開始、現・日新製鋼(株)呉製鉄所)、(株)淀川製鋼所呉工場(昭和二九年一二月一八日に操業開始)などが進出した。
日亜製鋼(株)は、昭和三二年から三三年のなべ底景気のなかで、製品の競合、設備の二重投資をさけるため、三四年四月一日、同じ八幡製鉄(株)系列の日本鉄板(株)と合併、日新製鋼(株)が誕生した。同社は呉工場(昭和四一年に呉製鉄所と改称)に三七年六月一日に第一高炉、四一年三月一日に第二高炉を建設し稼働させるとともに、四〇年四月一日には一号転炉、一一月に新熱延、四二年に連続鋳造設備を設置した。こうして呉製鉄所は、同社の素材供給基地としての役割をになうようになったのであった。
昭和三〇年にはじまった第一次造船ブームは、造船所ばかりでなく、巨大な戦艦のスクリューをつくった施設と技術陣を引き継いだ尼崎製鉄(株)呉製鋼所にも発展の契機となった。四〇年四月一日、尼崎製鉄(株)は(株)神戸製鋼所と合併、合併により体質が強化された呉工場は、舶用プロペラ、戦隊部品、大型製罐品、とくに船用プロペラにおいては世界のトップメーカーにまで成長した。
- 1946年4月1日旧呉工廠跡に尼崎製鉄 呉作業所(主に呉工廠製鋼部跡)を開設
- 1951年6月30日 日亜製鋼 呉工場 第二号平炉出鋼開始
- 1959年4月1日 日亜製鋼が日本鉄板と合併、日新製鋼 呉工場となる
- 1962年6月1日 日新製鋼 呉工場 第一高炉火入式
- 1965年4月1日尼崎製鉄が神戸製鋼所と合併し、神戸製鋼所呉工場となる
- 1966年 日新製鋼 呉製鉄所へ改称
- 1966年4月1日 日新製鋼 呉製鉄所 第二高炉火入式
呉市史編纂委員会(編)(2002)、呉市制100周年記念版 呉の歴史 pp.328 第8章 平和産業港湾都市への転換 第6節 旧軍施設の平和産業への転換 三、あいつぐ企業の進出・pp.348 第9章 高度成長と生活の変容 第2節 高度成長を支えた産業 一、呉地区への進出企業
創部60年目・古豪の陸上競技部は公式大会への参加が2020年度限り。最後の中国実業団駅伝とニューイヤー駅伝「ラストラン」は注目を集めました*17。日新製鋼呉・日鉄瀬戸内は全日本実業団駅伝・ニューイヤー駅伝*18に9度の出場。出場歴を調べていたら、往年の名ランナーや開催が元日に変わった経緯、同じく元日開催が恒例天皇杯サッカー決勝*19との相関関係などに興味が移り、「音戸と西部警察」からますます遠くなるので駅伝はこのあたりで。
- 第29回 1984年12月16日 5時間10分58秒 23位
- 第31回 1986年12月21日 4時間21分19秒 26位
- 第32回 1988年1月1日
- 第33回 1989年1月1日
- 第34回 1990年1月1日 4時間30分17秒 18位
- 第35回 1991年1月1日 4時間32分59秒 25位
- 第36回 1992年1月1日 4時間23分21秒 23位
- 第44回 2000年1月1日 4時間34分49秒 36位
- 第65回 2021年1月1日 5時間21分47秒 36位
大空山青年の家。呉越を越えてすぐに坂をのぼって行くイメージだったんで、所在地は阿賀だと思いこんでいましたが、このたび広だと知りました*20。呉三津田高校在学時(1990年〜)放送部の夏合宿は大空山。ハイライトはOB・OGを招いて*21講堂で披露するDJ形式の模擬番組でした。そのオープニングテーマはベンチャーズ「10番街の殺人」。昭和40年リリース「Knock me out!*22」の赤盤LPを使っていましたので、この催しは割と回数を重ねていたのかもしれません。
さて、在校・現役時に伝え聞く「先輩方の偉業・優秀ぶり話」は「高校の部活あるある」ですが、新聞などから伝え聞く最近の放送部の活躍は目覚ましいもので「後輩こそ優秀」が定説になっています。呉三津田44回のぼくらはNHK杯広島大会入賞するも全国大会は箸にも棒にも掛からない体たらく。上京しても会場には行かず、サンプル盤提供のお願いにレコード会社巡りをしていたものでした。
「大空山青年の家」の思い出をもうひとつ。それは昭和60年・61年夏休み1泊の星空観測会。主催は教育委員会。仕出しは給食センターみずほ(呉糧配)。そうですハレー彗星ブーム*23で、宇宙・天体観測が当時のトレンド。学習誌は言に及ばず、必殺仕事人・中村主水と姑のせんさんのコントでもホウキ星が飛んだほど*24。おかげですっかり見た気になっていますが、これは認知バイアスというやつで、おそらく南半球での観測をニュースで見たんでしょう*25
「図書館が二河公園から蔵本通に移転したのいつだっけ?」Google検索をかけたら、父の寄稿文を見つけました。環境技術学会の学会誌「環境技術(1989年)」に掲載され今でもPDFで読むことができます(「呉市快適環境整備計画」と都市景観形式モデル事業の現状)。レンガをあしらった呉の整備事業・景観や歴史に興味のある方におすすめしたい一冊「街のいろはレンガ色(中国新聞社 2000年)」の補助線くらいにはなるかもしれません。
現在の呉市中央図書館(中央3丁目)は1985年7月20日起工。開館は翌年の昭和61年11月1日です*26。ちなみに中央図書館が移転する前は公園。さらにさかのぼってざっくり言うと、岩方公園あたりに戦前〜昭和37年まで市役所があり官公庁ブロック。昭和20年7月の空襲で一帯が全焼した様子は「この世界の片隅に」でも描かれています。右手を失ったすずさんのお見舞いに来たすみちゃんを見送る道すがら「広島へ帰っておいでや」と言われたあたり。
「呉うまいもん 味と観光ガイド」案内図に掲載されている図書館は二河公園。貸出カードをつくってもらったのはおそらく小学2年生前後。西部警察を観ていたころです。書架の様子や何を借りたのか全く思い出せないのですが、食堂でナポリタンをよく食べていたことと、1階両端に2階へ上がる階段が並んでいて、エントランス中央から小学生の身長で見上げると左右対称のつくりに見えたことは覚えています。
昭和四二年一月一〇日、呉市立図書館が西中央五丁目四番二号地に新築、開館した。勤労者文化会館と併設である。 呉市立図書館は大正一四年、元呉鎮守府長官山内中将遺徳顕彰事業として、二河公園内(いまスポーツ会館のあるところにあった)のレストラン「湖月」を買収・改築し、山内家寄贈の図書を基礎に五三八二冊をもって、同年一一月二五日に開館した。県下における市立図書館のはじめであった。
新図書館は鉄筋コンクリート三階建、延べ二二九五平方メートル。一階は児童室三六席、五〇人収容できる集会室二、玄関ロビーは新聞閲覧室を兼ねる。二階は開架式図書室、五二席、一万冊を備えてあり、自由に選んで読書ができる。三階は学習室二四八席、中学生室、高校・大学生室。蔵書数は一一万冊、年間利用者一九万三〇〇〇人。また団体貸出を五〇余団体に行なっている。本館の最も特色は、明治中期以降の「芸備日日新聞」、「中国新聞」を所蔵し、希望者の閲覧に供していることである。
春秋の読書週間には、図書館主催のお話会や講演会を催し、毎月第一土曜日には文芸講座「現代詩の作り方」が開かれている。 呉市立図書館副館長 中西一信ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 呉(1978年)金指正三(編)国書刊行会 pp.108 呉市立図書館新築店開き
映画「故郷」は、宮本常一の民俗学のカテゴリーなのか?
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さよなら音戸渡船
昭和36年音戸大橋開通の家族写真
大正12年音戸町出身の祖父が撮った家族の一葉をインスタに投稿しました。写真に納まっているのは祖母・叔父・叔母です。長男である当時14歳の父が写っていないのは、祖父曰く「あのがんぼったれは的場(の自宅・呉市的場1丁目)からの行きし、かわいらしゅうないこと言いよったけえ帰らした」と。
「ああ、なるほどもうこの頃からか。」爾後この二人の緊張関係は半世紀にも渡り、時々衝突しては家族や親戚の集まりが地獄絵図と化す瞬間に何度か立ち会って来たので合点がいきました。父子って難しいものですねえ。
平成21年祖母の最期を見取った祖父は、叔父家族からの同居の申し出を断って、ひとり的場での暮らしを良しとしました。日課は古いアルバムを引っ張り出しては家族のめぼしい写真を拡大コピーし、額装しては仏間に飾ること。その数があまりに多く、つれあいを喪ったショックでヤキが回ったと心配しましたが、写真を手に取りながらしっかりした口調で思い出を語るものですから、心身に異常なくこれは祖父なりの弔いの儀式だったと思っています。
祖父はたくさん話をしてくれました。大正生まれは「数え」で年齢をカウントすることに近代の名残り。そして現在と異なる学制・家庭環境によって生じる学齢差を年表に符号させながら聞いたものです。
折しも片渕須直さんが「この世界の片隅に」の取材を呉で始めたことがメディアで報じられたり、あき書房(広島市南区皆実町5丁目)が復刻した呉の古地図を手に入れたので、近現代史・郷土史のマイブームが到来。祖父の話を生きた証言として書き留めることにしました。
「明治期創業の回漕店」「鰯浜と高須の家で小商い」「旧制大阪外語の受験に失敗」「音戸高女 學校報國隊」「産婆看護婦学校」「呉海軍病院」「呉工廠で歌う藤山一郎」「昭和19年教育召集」「原爆禍」「枕崎台風」「呉湾機雷掃海」「呉造船労働組合」「第6回国民体育大会」「広島復興大博覧会」そしてこの度の写真「音戸大橋開通」と、ここまででもかなりのボリュームです。国会図書館や大宅文庫の史料から裏取りできた事項もあったので、祖父の話は概ね史実に基づいており、一家眷属は「この世界の片隅に」の登場人物と偶然に行き交うこともありながら暮らしていたんだなあと分かりました。
さて、祖父が鬼籍に入ってこの春で3年になります。父は書斎に仏壇をあつらえて毎朝お線香をあげているようです。母に聞きました。
最晩年は認知症の進行が速く、寝たきりになり胃ろうを増設。終の住処は病院併設の施設となりました。父は的場の仏間から拡大コピーの家族写真を全て持ち出し、毎日病室に通ってはベッドに横たわる祖父に見せながら語りかけていたようです。これは葬儀の後に叔母が教えてくれました。
瞳のわずかな動きしかとれなくなっていた祖父は、父とどんな話をしたんでしょうか。ぼくの後悔は、家族の輪の中心に祖父がいる写真が少ないこと。そして祖父と父がならんだ写真を撮っていないことです。
主を失った的場の家は取り壊され、鰯浜と高須の住まいも既にありません。高須へ盆灯ろう携えての墓参りが唯一の里帰りですが、音戸の瀬戸は家族の原風景です。祖父の思い出を、ぼくも家族へ伝えていけたらいいなと思っています。
中年が感傷に任せて爺ちゃんを偲ぶ・語る。おつきあいいただきまして御礼申し上げます。ありがとうございました。
*1:西部警察 PART-Ⅱ 第18話「広島市街大パニック!!」昭和57年10月17日放送
*2:安住さんがラジオでお話ししていたこと=2020年1月19日 TBSラジオ 安住紳一郎の日曜天国「47歳ごろが人生で一番キツい」アメリカの経済学者が発表した論文から46歳の副部長が自嘲気味に語る https://www.pinterest.jp/pin/713609503447599292/ 。(2021年5月30日の「にち10」では副部長から「TBSテレビ総合編成本部アナウンスセンター局長待遇エキスパート職」へ昇進したことを発表 つきこ on Twitter: "2階級特進・殉職扱いで局長待遇になる人の肩書きは、長い(名刺を見ながら読み上げ)。 #nichiten… ")。高校の先輩が明治の政経へ進学し、「大学の図書館には中国新聞がある」と教えてくれたことがあります。駿河台キャンパスに連れてってもらい2日遅れの中国新聞朝刊をみつけてとても感動しました。当時安住さんは明治の学生。「もしかしたらあの時すれ違っていたかもしれない」&同世代・地方出身者なので、連帯感をこちらから一方的におぼえます。「上京しての浪人生活・知り合いのいない成人式会場で最前列を陣取った」笑いを誘うお話しぶりでたしかに笑えるのですが、しんみりした気持ちになるのはやっぱり同世代の地方出身者だからなのでしょう https://twitter.com/nichiten954/status/1348429301608140801 (2021年1月10日 安住紳一郎の成人式の話「ハレの日の孤独」)
*3:西部警察 PART-II 第19話 1982年10月24日放送
*4:西部警察・広島編のロケ撮影は昭和57年7月3日〜11日
*5:サザエさん 昭和57年10月24日は「落葉」「読書シーズン」ほかの3本です
*6:さすがの猿飛 昭和57年10月17日から放送スタート。10月10日までは「おじゃまんが山田くん」。さすがの猿飛は昭和59年3月11日最終回。その後「Gu-Guガンモ」昭和60年3月17日まで。新海誠さんの「君の名は。」主人公二人がお互いの記憶をなくす展開って「Gu-Guガンモ」最終回とダブらせるのは細野不二彦さんのファンかも。
*7:佐伯郡大野町 2005年11月廿日市市へ編入=廿日市市大野
*8:広陽日産 おそらく広島市西区三篠町の三篠本店=現在の広島日産自動車 三篠本店(広島市西区三篠町3丁目14-17)
*10:〒730 広島市南区大須賀町3-6-17 郵便番号 3ケタ → 7ケタ変更は1997年〜98年。これは架空の住所。広島市の大字「大須賀」から大須賀町へ変わった明治22年以来町内に「丁目」の区域はありません。劇中「大須賀町」の住所は風間による虚偽記載のニュアンスで描かれています。大須賀町は広島駅の西側飲食店街〜常盤橋に至る城北通り周辺。駅東側愛友市場・広島駅南口Cブロックのお店が西側飲食店街へ移転を始めたことで活況。2014年ごろから「エキニシ」のカタカナ愛称で親しまれています。このエキニシでCブロック(エキシティひろしま)やBブロック(ビックフロントひろしま)のように再開発が行われない理由は、地権者が多すぎて足並みがそろわない・動きがとれないからと聞きました。ちなみに再開発前のBブロックは、土地所有者・借地権者・建物所有者・借地権者あわせて127人。西部警察の撮影が行われた昭和57年当時の「エキニシ」飲食店街は、戦災復興土地区画整理事業(昭和21〜44年)を経て土地の利用状況が細分化・2階〜3階の低層建物密集の町並みのため、公的機関ならまだしも、風間の虚偽記載は見抜けないというイメージなのかなと思いました。大須賀町で付記をもうひとつ。当ブログ唯一の読者さま「LAICEPSさん」が「広島第一劇場」の記事コメント欄に「松本無線」の思い出を教えてくれました。2015年に閉店した銀山町の松本無線を懐かしむと同時に、店内バーゲンコーナーにパズルゲーム「ぷよぷよ」グッズが置いてあったことを思い出しました(的場町のフジカメラでも同様の「ぷよぷよ」グッズが売られていたことまで思い出しました)。「ぷよぷよ」を開発したゲーム制作会社「コンパイル」は平成10年に経営破綻しましたが、最盛期は広告出稿が多く、RCCラジオ「びしびしばしばしらんらんラジオ」でもコーナー提供をしており、社長の仁井谷正充さんは出演もしていました。仁井谷さんがラジオで披露した「コンパイルは大須賀町のマンションの一室からスタート」から始まる立志伝トークは、番組の学生スタッフをしていたのでよく覚えています。当時コンパイルは駅前通りアスティ京橋ビルにオフィスを構えていたので、対比としての「大須賀町のマンションの一室」が強く印象に残っています。さて、松本無線などに持ち込まれた大量の「ぷよぷよ」グッズ。コンパイルの経営が傾き、元祖ぷよまん本舗の在庫を整理業者が引き取ったものが流れたと予想しています。
*11:能美海上ロッジ工費9500万円 中国新聞朝刊 昭和42年7月9日より
*12:江田島荘の運営はレーサムのグループ会社「海風(なみ)」地元を中心に従業員44名を採用し雇用機会創出の役割も担っているそうです。 中国新聞 on Twitter: "【瀬戸内の絶景、温泉、シェフの地元食材料理…江田島荘1日オープン】 https://t.co/TFq0KefB5x 江田島市能美町の長瀬海岸に、市内最大規模の民間ホテル「江田島荘」の内覧会が完成し、内覧会がありました。#江田島荘 #ホテル #江田島市能美町 #長瀬海岸… https://t.co/SUySErmlZj"
*13:呉三津田高に在学中、現代社会・倫理の水野善親先生から現代社会研究会の資料整理を拝命し、バイト代替わりに呉阪急ホテルのレストランでごちそうというのが良い思い出です。成績はひどいものでしたが、友達と先輩後輩、先生に恵まれた楽しい高校生活でした。
*14:芸南ふれあい交流マガジン海陽彩都 No.57 https://www.city.kure.lg.jp/uploaded/attachment/11911.pdf
*15:呉市史編纂委員会(編)(2002)呉市制100周年記念版 呉の歴史 年表・昭和 pp.441
*16:毎日新聞ニュース on Twitter: "呉商議所「大変残念」 日鉄呉製鉄所23年までに閉鎖 「心の準備していたが…」 https://t.co/1OWsunD0qz" 経緯と理由、支援は呉市のホームページが詳しいです。日本製鉄(株)瀬戸内製鉄所呉地区に関するこれまでの経緯 https://www.city.kure.lg.jp/uploaded/attachment/60560.pdf 日本製鉄 瀬戸内製鉄所 呉地区全設備休止について(2021年5月20日) https://www.city.kure.lg.jp/uploaded/attachment/60589.pdf 、日本製鉄、呉製鉄所閉鎖へ 地域経済・雇用に打撃: 日本経済新聞 、ビジネス特集 消えゆく鉄の灯 呉の街は | NHKニュース
*17:中国新聞 on Twitter: "日鉄呉陸上部、有終へ挑戦 部員減少・閉鎖方針で駅伝に区切り https://t.co/nPV0IUCcXE" 、TBS 陸上 on Twitter: "【駅伝日本一決定戦🌅#ニューイヤー駅伝 まであと36日】今日から出場チームでカウントダウン👏21年ぶり9回目の出場中国地区代表 36 #日本製鉄瀬戸内 です「日鉄魂 未来へ繋ぐぞ❗️」【2021年元日 #TBS 系列生中継】… https://t.co/vcLPw4DIOU"
*18:全日本実業団駅伝・ニューイヤー駅伝=全日本実業団対抗駅伝競争大会
*19:昭和43年の第48回天皇杯全日本サッカー選手権大会から元日決勝が恒例になりました。第94回大会をのぞく。明治神宮は国内で最も多い初詣客が集まるので、近くの国立競技場でファイルを開催すれば
*21:呉三津田高校放送部OB・OGを招く=80年代はNHKアナウンサーの末田正雄さん(呉三津田21回)がいらしたことがあり、講堂の緊張が一気に頂点へ達したと先輩方からうかがいました。ちなみに硬式野球部と図書部所属だったという浜田省吾さんは末田さんの一学年下・呉三津田22回生だそうです。
*22:Knock me out! ノック・ミー・アウト 1965年 A面 1. I feel fine、2. Love potion No.9、3. Tomorrow's love、4. Oh, Pretty woman、5. Mariner Ⅳ 夢のマリナー号、6. When you walk in the room、B面 1. Slaughter on tenth avenue 10番街の殺人、2. She's not there、3. Lonely girl、4.Gone Gone Gone、5. Bird rockers、6. Sha la la
*23:昭和61年スペースシャトル・チャレンジャーのショッキングな爆発・空中分解事故もありました
*24:必殺仕事人V激闘編 第17話 江戸の空にハレー彗星が飛ぶ 1986年3月21日