Hiroshima Photography

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この世界の片隅にの時代 その1

サロンシネマ チケットカウンター 純喫茶パール 広島市中区八丁堀 この世界の片隅に 先行上映 2016年10月20日

昨年10月20日サロンシネマで「この世界の片隅に」を観ました。この日は先行上映会で、映画の前には監督の片渕須直さんと、すずさん役ののんさんの舞台挨拶がありました。のんさんは、目の前の観客全員が熱心な原作読者で、しかも広島弁に堪能な地元の人で占められていることに、2度おののいていましたが、その仕草からはすずさんの人柄を連想させました。のんさんの広島弁はお上手でしたよ。

年がかわり4か月が経とうとしています。全国63館で11月12日に公開がスタートした「この世界の片隅に」は、上映館が累計で300を突破したそうです。観客も増える一方。その間ずっと片渕さんの twitter は、映画をご覧になったみなさんの感想やプロモーション行脚の様子、獲得した映画賞など関連ニュースでいっぱいです。そしてそれをファンがリツイートするもんだから、タイムラインは埋めつくされることがしばしば。ツイートが加速度を持って拡散されていく様に、評判が評判を呼ぶとは、あぁこう言うことかと納得したものです。

これからは「In This Corner Of the World」や「En este rincón del mundo」のタイトルで海外での上映が始まるとか。メキシコ、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ…etc。国も人種も超えて胸に響くはずよねって、普遍性を信じる一方で、生涯訪れることはなさそうな彼の地にまで、まさか呉が舞台の映画が行くとは…! あの呉がワールドワイドなことになるとは…!「あの呉がねぇ…」となんだかピンと来ない、不思議な気持ちです。

さて、その呉こそがぼくのふるさとなわけでして、昭和50年に生まれ、当時ベッドタウンとして造成が進んでいた焼山の団地で育ち、そして呉三津田高校を卒業するまで過ごしました。両親も呉で、宮原と広。さらにさかのぼれば、旧安芸郡の音戸や倉橋に蒲刈。明治以来の呉市の宅地開発の歴史に呼応するように、世代がかわれば新たに居を求め、そこで家族を育んできました。そんな地縁の親しみから入った「この世界の片隅に」ですから、わが家の血脈を重ねることを抜きにして観ることはできませんでした。戦後レジームからの脱却を善しとする現在を、昭和は遠くになりにけりとばかり、ただただ、うすぼんやり生きているぼくであっても、自身を成す要素には戦争の時代が確実にあるのだよと、中年のおっさんに成り下がったぼくの心のひだに、ぐいぐいと触れて来るのでした。

もちろん、一般教養として、そして広島県で生まれ育った日本人として、戦争が残した翳りに自覚が無かったわけではありません。ただ、そういうこととは位相が少し違うのかなと思っています。いずれはぼくも納められる累代の墓苑の道すがら、ずらりと並んだ数十基の墓石には、どちらを見ても「昭和二十年八月六日」の命日が刻まれていたので意識せざるを得なかった「原爆」と、課外授業の一環として平和記念資料館で学んだ「原爆」の違いです。ニュアンスおわかりいただけるでしょうか。

映画で描かれている昭和20年前後の呉を観ながら、ぼくは、ぼくが知っている平成の御世に至る前後10年の呉とを行ったり来たりしていました。

昭和19年2月すずさんのお嫁入りで浦野一家は呉へ。呉駅到着の直後に高烏砲台から砲煙があがります(CUT-178)。昭和59年3月ぼくらは三津峰山遊歩道を探検していました。そのゴールは高烏公園、つまりかつての高烏砲台です。砲座は芝に埋まっていますが堡塁は健在。往時の要塞の体を未だ残し、ミリタリー感ありありなんですが、同時にそこは満開の桜越しに音戸の瀬戸を見おろせる名所でもあります。連れだつは坪内小学校の岩上崇くん。ファミコンSG-1000の両方を持っていた子で、海上自衛隊の宮原官舎に住んでいました。官舎の裏から登って遊歩道に合流し、小学3年生の足にはかなりの距離だったのに、桜の開花にはまだ早く残念でした。数日後お父さんの転勤で横須賀へと引っ越す岩上くんに、那須正幹さんの「あやうしズッコケ探検隊」をプレゼントしました。

昭和19年9月おしろいのすずさんが、周作さんと待ち合わせた呉下士卒集会所(CUT-648)。平成3年9月海上自衛隊呉集会所で待ち合わせたのは、宮原高校の田口くん。WINKの「ESPECIALLY FOR YOU」を買って、2人でしみじみニヤニヤしていた昭和中学からの同級生でした。市民に解放されていた集会所のボーリング場で、2人だけの三津田・宮原対抗戦を挙行すべく再会したわけです。勝負の行方はまるっきり忘れてしまいましたが、ちょっとレトロなレーンで「医学部ゴー!」と叫びながら田口くんが16ポンドのボールを放っていたのは覚えています。偏差値高い子ってちょっと変わってますよね、ドクタータグチ。

大正12年生まれの大伯母は昭和18年まで呉海軍病院に勤める看護婦さんでした。昭和20年6月圓太郎さんの入院がわかった病院です(CUT-1026)。

昭和19年12月入湯上陸する水原哲さん(CUT-767)。昭和56年近所の後河内さんの仏壇には、若い水兵さんの遺影がありました。誰だったんだろう。後河内のおばさんに不躾にたずねることが、幼心にも憚られる雰囲気でした。キリンレモンでも、トビキリのラムネでも、とにかくジュースを1ケース呉糧配で注文したら景品にくれたコカ・コーラのヨーヨーを、両手に2つ構えて同時に操るおもしろいおばさんだったのですが。

昭和20年3月19日灰ヶ峰防空砲台の高角砲が火を吹きます(CUT-881)。平成16年3月かずほさんのミニバンで灰ヶ峰をドライブデート。いちゃいちゃバカップルぶりを発揮していた展望台が、まさか砲座だったとは露知らずです。ぼくにとっての灰ヶ峰は、学校の遠足の目的地であり、その山頂は毎年4月28日に校内総出で高校の創立記念植樹をするところ。その式典の挨拶に立った生徒会長が、プリンセス・プリンセスのダイアモンドをアカペラで披露した、ラブ&ピースの現場だったのです。

昭和20年9月枕崎台風。土砂崩れに巻き込まれて音戸町奥内の曾祖母が亡くなりました。曽祖父と除隊した祖父は戦後しばらく呉湾の掃海をしていました。

この世界の片隅に」は、原風景とシナプスに作用する映画。それがぼくの一番の感想です。舞台としての呉か、アイデンティティーを培われた呉か。その距離の取り方を承知しつつも、映画のシーンがまるで思い出の引き出しを開けるかのようでした。ぼくはすずさんの向こうに、たいせつな、忘れ得ぬ人たちを見ていた。そういうことなのです。

この世界の片隅に メッセージカード 広島市中区立町 ジェラート工房ポーラーベア

全国公開のカウントダウンに入ったころ、メッセージカードの束が「この世界の片隅に」製作委員会 から届きました。制作支援メンバーズ通信(#57)によると、この送付作業(3374通)には、宮村さんをはじめとする宣伝チーム、スタジオの鈴木さん三宅さん、山本さんで7時間かかったとか。「お友達への宣伝活動にご利用を」の旨の書面が同封されていましたが、す、すいません。お友達すくないんですぅ。ジェラート工房ポーラーベア(広島市中区立町)にお預けしましたので、どうぞご来店の際にお持ちくださいませ。380円でド迫力ボリューム。行列のできる人気店です。

 

 

 

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